■明治期に帝国陸軍が兵士の食料を保管する糧秣廠(りょうまつしょう)が置かれた地で、関東大震災後の帝都復興事業により整備された。開園は昭和3(1928)年。■勝海舟旧居跡(勝海舟揺籃の地)旗本の岡野孫一郎の屋敷跡。海舟は9歳から24歳までをこの地所内で過ごした。孫一郎の養女・たみは海舟の妻。 ■伊藤左千夫牧舎兼旧居跡亀戸中央公園小説「野菊の墓」で知られる歌人。明治22(1889)年、 ここに牧場を開き搾乳業を開始。ゆとりが生まれ、文学に傾倒。■本所七不思議の中で、落語の題材として人気があり、有名になった「置いてけ堀」があったとされる場所の一つ。■江東寺(江東観音)錦糸町の観音様東京楽天地の開発により、昭和15(1940)年、群馬県伊香保町の水沢観音の別院として創建された。■幕末に幕府の命で江戸市中の取り締まりにあたった浪士隊「新徴組」の組屋敷が置かれた場所で、小笠原加賀守の屋敷跡。第二亀戸中■狂言作家。明治20(1887)年、72歳で転居し、病没するまで過ごした。「都鳥廓白浪」を始め、多くの名作を残した。■落語家の圓朝が明治9(1876)年から11年暮らした場所。この地で塩原太助の一代記を完成させた。■万治3(1660)年、本所開拓で開削された大横川は汚染などから大半が埋め立てられ、公園となった。毎年2回、ガラス市を開催。■津軽家中屋敷の跡。明治期には糧秣廠が置かれたが、稲荷は残された。震災、戦災で焼失するも昭和35(1960)年に再建。■すみだトリフォニーホール音楽都市すみだの拠点平成9(1997)年の開館。大小のホールとパイプオルガンを備えたコンサートホール。新日本フィルハーモニー交響楽団の活動本拠地。■亀戸4明応7(1498)年に創建された法恩寺の塔頭で、痰病守護の道晴様と呼ばれる神を祀り、「たんぼとけ霊場」として知られる。■長享元(1487)年に開創された法恩寺の塔頭。蔵前橋通り眼病守護の護符を授ける「めぼし霊場」として有名。俳人・水間沾徳の墓がある。■NTT墨田「慰霊の碑」亀戸水神殉職した職員を慰霊関東大震災で殉職した男子職員2名、東京大空襲で殉職した女子交換手28名、男子職員3亀戸5名を慰霊する碑。亀戸五丁目中央通り■栗本鋤雲旧居跡幕末は外国奉行として、維新後は有力新聞社の主筆として活躍。明治12(1879)年には本所区初代区議会議長となった。■労働をテーマにした作風で知られる歌人・松倉米吉が、23歳で没する最後の2年を暮らした家。■安永3(1774)年、旗本の能勢頼次が故郷の能勢宗の妙見大菩薩の分体を下屋敷に祀ったのが始まり。勝小吉も信心した。■霊性院明亀戸四丁目治境内の延命子育地蔵尊は、井戸を掘削中通に清水とともに掘り出され、この水を含りみ願えば病が快癒するとされた。■水神通り太田道灌ゆかりの寺江戸城築城にあたり、長禄2(1458)年、太田道灌が丑寅の方角である江戸平河(千代田区)に建立したこと水神小に始まるとされる。道灌の孫の資高(すけたか)が、父資康(すけやす)の追善のために堂舎を造営、寺名を本住院から平河山法恩寺に改めた。江戸開府後はやむなく数回の移転を重ねて、元禄元(1688)年、現在地に寺地を定めた。■元の名は田中稲荷。大火の際、社の池からタニシがはい出して社殿に張り付き、類焼から守ったという。■出身高の敷地内の碑には、龍之介が愛し亀戸7た大川(隅田川)についての19歳の頃の随想の一部が刻まれている。■江戸時代、人々に時刻を知らせたのが時の鐘で、本所横川にも置かれた。竪川と横川が交差する場所で回りによく響いた。■神田の名主である河村徳右衛門が元禄6(1693)年本所に転居、屋敷神も移す。「元、徳右衛門邸のお稲荷様」が縮まり社名に。新小原橋社亀戸水神駅丸八通り亀戸駅前亀戸七丁目亀戸六丁目水神森すみだミニ情報知っ メモ得JR総武線錦糸町駅の北側付近には、関東大震災後の区画整理で千代田区神田付近の製菓関係者が集団移転し、菓子問屋が軒を連ねた。今では数件を残すのみとなったが、充実した品■えの駄菓子屋が健在。人気スポッ大島6トとして親しまれている。日本で初めて赤燐(せきりん)を用いた「安全マッチ」を製造した会社。創始者の清水誠は明治3(1870)当時のパッケージデザイン年に渡仏し、きわめて難しいとされるマッチの製法を修得。帰国後さらに研究を重ね、同9(1876)年に大久保利通の後援を受けて本所柳原(現在の両国高校付近)で本格的に製造・販売を開始した。両国高校の敷地内には「国産マッチ発祥の地」の記念碑が建てられている。 いくつも生まれた江戸の七不思議。中でも最も広く知られたのが本所七不思議で、草紙や浮世絵、落語などがこぞって題材とし、妖怪話や怪奇談が大好きな江戸っ子の人気を集めた。 本所七不思議としての体裁が整ったのは、寛政年間(1789〜1801)と考えられている。ただし内容や構成が異なる伝承もあり、不思議の数は十ほどになる。 どの伝承にも必ず入っている不思議が、堀で釣りをしていると、どこからともなく“おいてけー、おいてけー”と声がして、魚籃(びく)の中の魚が1匹もいなくなるという「置いてけ堀」と、片側にしか葉がつかない■の由来を語る「片葉の葦(あし)」の二つ。このほか、「狸囃子(たぬきばやし)」「足洗い屋敷」「送り提灯(ぢょうちん)」「消えずの行灯(あんどん)」「送り拍子木(ひょうしぎ)」「落葉なき椎(しい)」「津軽の太鼓」「入江町の時無し」などがある。区内を自転車で回ろう!墨田区 自転車シェアリング&レンタルhttps://visit-sumida.jp/event/21224/墨田区・一般社団法人 墨田区観光協会TEL:03-6657-5160 FAX:03-6657-5166Email:sumida@visit-sumida.jp https://visit-sumida.jp/精工舎の工場跡錦糸公園の北側には、明治26(1893)年に現在の石原1丁目付近より移転した精工舎(現在の㈱セイコーホールディングス)があり、平成9(1997)年の工場閉鎖まで数多くの時計が作られた。セイコーの名は、精巧で精密な時計の生産に成功する工場、「精工舎」に由来。現在、跡地は商業施設「オリナス」となっている。「本所七不思議之内 置行堀」(上)、「本所七不思議之内 片葉ノ芦」(下)/岡多国輝昭和31(1956)年の精工舎と錦糸公園お菓子の街錦糸町大島3亀戸6亀戸8江戸時代の本所を舞台にした怪奇談アトレ亀戸駅通り 昭和15(1940)年、墨田区八広で生まれ育った王貞治氏。甲子園でノーヒットノーランを達成し、読売巨人軍へ入団。一本足打法を編みだして以来、ホームランを打ち続ける。昭和52(1977)年9月3日に756本の世界新記録を達成し、868本まで記録を伸ばし、世界のホームラン王となる。長嶋茂雄選手とともにON砲と呼ばれて、一時代を築き、引退後は巨人軍の監督、ダイエー・ソフトバンクホークスの監督を歴任。平成第二亀戸小18(2006)年の第1回ワールドベースボール・クラシックでも監督として采配をとり、日本を初代王者に導いた。平成22(2010)年、墨田区の名誉区民となる。王貞治顕彰コーナー錦糸公園内にある墨田区総合体育館の2階にある。王貞治氏ゆかりの品々が約30点常設展示され、入場無料で自由に見学することができる。隅田公園少年野球場五ノ橋昭和24(1949)年に造られた日本初の少年野球場。こちらは向島エリアにある。墨田区少年野球連盟では、城東高この球場で毎年「王貞治杯」を開催している。江東商高本所中学校の前にある王貞治記念碑京葉道路慈光院福神橋香取小亀戸駅サンストリート亀戸竪川大橋北詰新燧社跡(しんすいしゃあと)すみだミニ情報能勢妙見山別院墨田区ゆかりの人・王貞治法恩寺新徴組屋敷跡河竹黙阿弥終焉の地三遊亭圓朝旧居跡大横川親水公園津軽稲荷神社錦糸公園錦糸堀公園田螺稲荷神社芥川龍之介文学碑時の鐘跡元徳稲荷神社散策は、駅南口の伊藤左千夫旧居跡からスタート。次に錦糸堀公園。そして大横川親水公園を、寺社などをめぐりつつ、北へと歩こう!千栄院常光寺陽運院松倉米吉旧居跡本所七不思議錦糸町
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