討入りコース赤穂義士
赤穂義士 討入りコース
元禄15年(1702年)12月 14日の深夜、堀部安兵衛宅に集結した浪士たちは準備を整え、吉良邸へ向かいました。
吉良邸近くで他の浪士たちと合流し、表門と裏門から討ち入ったのは寅の刻(午前3時ごろ)であったと思われます。
「江戸城松の廊下での刃傷事件」から1年と9か月、ここに至る までの浪士の道のりは長く険しいものでした。
浪士の集結場所から吉良邸、そして休息した両国橋の広小路などを歩くコースです。
コース詳細
安兵衛公園
堀部安兵衛が開いていた剣術道場があった場所です。この道場は、討入り当夜の同志集結場所の三ケ所のひとつであり、行装を整え出撃していった場所でした。
二之橋
竪川に架かる隅田川より二つ目の橋です。堀部安兵衛道場を出発した赤穂義士は、この橋を渡って吉良邸へ向かったと言われています。
梶川与惣兵衛屋敷跡
"梶川与惣兵衛は、殿中にて吉良氏へ斬りかかろうとした浅野氏を取り押さえたとされています。また、この事件の様子を日記に詳しく記しています。惣兵衛の屋敷は、吉良邸のすぐ近くのこの地にありました。
●「仮名手本忠臣蔵 1号 永島福太郎 編」国立国会図書館デジタルコレクションより
吉良邸正門跡
吉良邸の正門があった場所です。元禄15年(1702年)12月14日、大石内蔵助以下23名が正門から邸内へ侵入しました。100人以上と装うため、大声をあげながら攻め入ったといわれています。
本所松坂町公園(吉良邸跡)
まさにここが討入りの舞台となった地です。正面右には「赤穂浪士遺蹟 吉良邸跡」の石碑があります。園内には、愛知県西尾市の華蔵寺にある上野介座像を再現したものがあります。
吉良邸裏門
吉良邸の裏門はこの辺りにありました。赤穂義士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下24名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。
前原伊助宅跡
赤穂四十七士の1人、前原伊助が米屋に扮して潜伏していた場所です。吉良邸の裏門とは眼と鼻の先にあり、討入り当日は赤穂義士たちの集合場所になりました。※赤穂義士は47人いたため、赤穂四十七士と呼ばれています。
一之橋
万治2年(1659年)に堅川の工事の際に架けられました。赤穂義士が泉岳寺に引き揚げる際に、最初に渡った橋として知られています。隅田川に一番近いので「一之橋」という名が付きました。
討ち入りそば跡
吉良邸討ち入りの前夜に、四十七士が皆でそばを食したとされる場所です。しかし、真相は明らかではなく、食したものが「そば」なのか「うどん」かも不明のエピソードです。
義士休憩の場所
赤穂義士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所です。ここで吉良家への応援に駆けつけてくると思われた上杉家の家臣たちを迎え撃つ心づもりがあったとの説もあります。休息後は、無益な衝突を避けるため、旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。
両国橋・大高源五の句碑
討入り当日、赤穂義士のひとり、大高源五の知人が、吉良邸の近くで年忘れ句会を開いていた。その会で知人が句を詠むと、目的を遂げた源五がその場で返句したといわれています。
両国観光案内所
両国エリアを中心した観光案内やパンフレットが設置されています。両国観光案内所発のガイドつきツアーも開催(夏季・冬季除く)しています。すみだのお土産も販売しています。